阿弥陀さまに抱かれて(134)

-1月の法話-

~何のために生まれて来たのか~

<人間に生まれた>

 

 新しい年です。明けましておめでとうございます。この度、私たちは人としての身を得ました。しかし私たちは、ややもすると人間に生まれたということにそれほどの感慨もなく、当たり前に生まれて来て、生きているのは当たり前だと思ってはいないか。しかし、人間に生まれたのは、誠に有り難い(有ること難い)ことなのだと、仏教の経典は教えています。また、生きていることも当たり前ではなく、有り難いことです。一つの譬喩を紹介します。

 

 四禅天という天上界でも一番高いところがあります。その天上界から、天人が地上に向けて糸を垂らして、その糸が地上に落ちている針の穴に偶々入るほどの出来事であると説いてあります。これは、人間の命を得ることが誠に難しい、それはそれは稀なことであるということを表しています。

 

 そして、人間に生まれたということは、仏さまの教えを聞くことの出来る世界に生まれたのです。

 

 

<幸せになるために>

 

 「幸せになるために生まれて来たのだ」というのが私たち共通の思いではないか。そのために、幸せになるためのものを手に入れようとします。例えば、健康、いつまでも若い、お金、財産、喜び、楽しみ、等々。そして、経済的に恵まれ、健康で長生きこそが一番幸せだと。確かに経済的に恵まれることは有り難いことですし、長生きは感謝すべきことですが、お金こそがこの世の一番の幸せだ、長生きだけが人生の目的みたいになってしまうと、それは少し考えた方が良いかもしれません。

 

 私たちは、幸せになるためのプラス価値のものを積み上げて、マイナスの価値を無くしていけば、幸せをつかめると思って頑張ります。しかし、仏さまは、そのことが本当の幸せに行き着くのではないと説いて下さいます。幸せのためのものも、得たかと思えば無くなり、そして、必ず手離す時がやってきます。

 

 

<南無阿弥陀仏に遇(あ)うために>

 

 このような話を聞きました。統合失調症を長く患い、病苦の中にいた老人が「この病気になって良かった、この病気のお陰で阿弥陀さまのお慈悲、南無阿弥陀仏に遇うことができました。今が一番幸せです」と言って、命終えて行かれたそうです。

 

 この老人は長い病苦の中にありました。しかし、その病苦の中で、縁あって浄土真宗の教えに出遇い、南無阿弥陀仏のおいわれを何度も聞かれました。

 

 「南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の『苦しみ悩む者を決して見捨てない、必ず救い取る、変わることのない安らぎを与えたい』というはたらきが現れているすがたなのだ」と聞き受けました。病気になったことは変わりませんが、その意味が変わりました。統合失調症という病気に「お陰さまでした」と、手を合わせる心が恵まれました。そこには、苦悩や悲しみさえもが、お陰さまでしたと転じられていくはたらきがあります。

 

 私は、この度の人生、南無阿弥陀仏に遇うために生まれて来ました。必ず命終わって行かねばならない私ですが、南無阿弥陀仏の仏さまは、私を必ずおさとりの仏にして下さいます。南無阿弥陀仏は「今すでに」はたらいていて下さっています。

 

 まことに得難い人間としてのいのち、それは思い通りにいかない、苦悩多き人生ですが、阿弥陀仏の慈悲に抱かれて、お慈悲を喜んで生き、おさとりの浄土へ参ります。

 

 南無阿弥陀仏に遇った今、幸せです。

 

 「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなしに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(歎異抄)

 

 煩悩で出来上がった私たちの移り変わりゆく無常の世界には、まことの幸せはありません。決して変わることのない清浄真実なる南無阿弥陀仏のお念仏一つが、本当の幸せを与えて下さるまことのはたらきです。

 

(住職)

 

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