<仏法を聞く>
仏法(仏教)は、死の問題の解決です。死の問題とは、この世に生まれた者は必ず命終わっていかねばならない。いつ命が終わるか分からない。そして、命終わったらどうなるのか分からないという問題です。仏法を聞くとは、死の問題の解決を聞くということです。
死の問題の解決を聞くと安心します。安心すると心が安らぎます。心が安らぐと、生きている限り苦悩は無くなりませんが、生きるのが楽になります。生きるのが楽になると嬉しいです。それは幸せです。実は、このすべてが阿弥陀如来さまから届けられています。決して変わらぬ「幸せ」が、如来さまによって「今すでに」届けられているのです。
<南無阿弥陀仏のいわれを聞く>
ある本を読んでいて、このような話が紹介されていました。
ある日、50代のご夫婦が突然、お寺を訪ねて来られたそうです。そして、ご主人が唐突にお話しされたそうです。
「私はもうすぐ命を終えます。実は今、病院で末期がんの宣告を受けてきました。途方に暮れて二人で歩いていると、偶々お寺の看板が目に入ってきました。私は実家が浄土真宗であることは知っていましたが、恥ずかしながら、これまで真宗の教えを聞いたことはありません。いや、聞こうと思ったこともありません。しかし、自分の命の終わりが近づいていることを知って、一度、浄土真宗の教えを聞いてみたいと、初めて思ったのです。どうか私に教えを聞かせてもらえないでしょうか」
相手をされたお寺の副住職さんがお話しされた後「毎月お寺で法座を開いていますので、もしよろしければ、ご一緒にお参り下さいませんか」と案内をされたところ、夫婦そろって毎月、浄土真宗の教えを聞きに来るようになられたそうです。
しかし、数ヵ月たったある日、奥さまから電話がありました。
「主人の容態が急変し、おそらく病院から出ることは叶わなくなると思います。けれど、主人の命がある間に、我が家に阿弥陀さまをお迎えしたいのです。是非、入仏の法要に来て下さいませんか」
副住職さんは、ご本山から阿弥陀仏のご絵像をお受けし、すぐにご夫婦の家を訪ねられました。ご主人は、一日だけの帰宅を許され、戻っておられました。その姿は、以前とは随分変わって、もう起き上がることも、立ち上がることもできません。ソファーに横たわったまま、そんな中での入仏法要であったそうです
お勤めの間「ナマンダブ、ナマンダブ」と、ご主人の小さなお念仏の声が聞こえていました。法要が終わり、副住職さんが玄関に向かっている時、両脇を奥さんとお嬢さんに抱えられたご主人が、副住職さんの方に近づいて行き、前に立ち、スッと指し出した温かい手で手を握り、こう言われたそうです。
「間に合いました。お陰さまで、阿弥陀さまのお慈悲に遇わせていただきました」
その十日後、ご主人は命終えていかれたそうです。
<まず、死の問題を解決する>
人は、死の問題に目を向けざるおえない時が必ずやってきます。私たちは、普段は死の問題には目を向けようとしないで、死の問題から逃げよう逃げようとしているのではないでしょうか。でも、いくら逃げても死の問題は無くなりません。
この男性は、お寺に参り、南無阿弥陀仏のいわれを聞かれました。そして、もうすでに、自分が阿弥陀仏の救いの中にあることを知らされました。阿弥陀仏の救いは、あらゆるもののところに「南無阿弥陀仏」という声のすがたとなって「今すでに」届いているのです。
必ず死ぬと知っていることと、死に直面しているのは違います。しかし、死に直面していなくても、誰もが死の問題をいま抱えているのです。死の問題の解決は、命終わる時にあるのではありません。いま解決するのです。
「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏の「あらゆるものを必ずお浄土に救いとって、おさとりの仏にしたい」という願いが成就されたはたらきです。その南無阿弥陀仏のはたらきにはからいなくまかせた時、必ずお浄土に参り、仏となる身に定まるのです。
いつまで経っても死にたくないという思いは消えないでしょう。しかし、その思いそのままの中に死の問題の解決があるのです。浄土真宗は今の救いです。一日でも早く死の問題を解決して、心の底に安心を得て生きていくのです。
仏さまは「まず、死の問題を解決して人生を送っていかないか」とお勧めです。
(住職)