<手段を尽くして目的に至る>
「私たちは何のために生まれて来たのか?」
「幸せになるために生まれて来た」
「そのためにはどうするか」
「いま一生懸命に頑張って、将来幸せになるために備えるのだ」
普段、このように「手段を尽くして目的に至る」という考え方を、私たちはしていませんか。
親ほど子どもの幸せを願うものはないでしょう。そこで、あんまり勉強をしようとしない子に、親は「遊んでばっかりいないで、勉強しなさい」と言います。
すると、子どもは「どうして勉強しなければならないの?」と聞き返します。
「ちゃんと勉強しないと良い成績が取れないでしょう」と親が言うと、
「何で良い成績を取らなきゃいけないの。学校の成績がそんなに大切?」と、また子どもが言い返します。
<親>「成績が良いと、良い大学に入れるでしょう」
<子>「どうして良い大学に入らなければならないの?」
<親>「良い大学に行けたら、良い会社に入れるでしょう」
<子>「なぜ、良い会社に入る必要があるの?」
<親>「良い会社に入ると給料が良くて、楽して生活できるでしょう」
<子>「なんだ、結局、将来楽するためなんだ。それなら今、楽しよう」と子どもは言って、結局勉強しなかったそうです。笑うに笑えない、笑い話です。
ただ、勉強を目的に至るための手段だけにすると、勉強そのものの意味が見失われてしまいませんか。いま勉強しているそのことに、大切な意味があるのではないでしょうか。
<豊かさの中の落とし穴>
明治時代の浄土真宗の僧侶、善連法彦(よしつらほうげん)師は、文明開化の盛んな1891年、西洋を視察した途中、フランスのギメ博物館で、親鸞聖人のご恩に報謝する「報恩講」を勤めました。フランスの大統領や、多くの政治家も参列したそうです。彼らの前で、法彦師は次のような表白(ひょうびゃく)を読んだそうです。
「もし有形の文明のみ独り進歩する暁には、たちまちに修羅の競争となり、地獄の苦患を生ずべし。ここにおいて、かかる金殿玉桜(きんでんぎょくろう)に住むも、何の楽しみあらんや」
(物があふれることだけを豊かと思う文明が進歩してゆくならば、たちまちに修羅のような傷付け合う競争社会となり、それは地獄の苦しみとなるだろう。それはどんな豪華な生活が出来たとしても、何の楽しみがあるだろうか)
何か、現代社会の様子を言い当ててはいませんか。これをすれば豊かになるか、あれをすれば豊かになるかと、願うように物がある豊かさばかりを追い求め、今の豊かさを見失ってはいないでしょうか。「もっともっと」と欲は尽きません。
<本当の豊かさは「いま」届いている>
『華厳経』をもとに作られた「礼讃文(らいさんもん)」に「人身受けがたし、今すでに受く。仏法聞きがたし、今すでに聞く」とあります。
人としての身を受けることは、それはそれは稀なことであるのだと、仏さまが教えて下さいます。人間に生まれることは当たり前のことではなく、深い深い縁があって、誠に有り難いことなのです。私たちは、有り難いことに人間の身をいただきました。私たちはどのような中に生まれて来ているのでしょうか。
平安時代の源信和尚が著された『往生要集』に「宝の山にいりて、手を空しくして帰ることなかれ」とあります。「せっかく人間界に生まれて来たのに、手ぶらで命終わって行ったらもったいないよ」と教えて下さっています。
宝とは、本当の豊かさです。そして、その宝は今すでにこの世界に届いている。私たちは宝の山に生まれて来ているのです。しかし、私たちはその宝に気付くことなく、いや、気付こうともせず、もっともっと、自分の思い通りになれば豊かになると、欲は尽きません。人生は思い通りにはなりません。それを思い通りにしようとして、苦悩しているのです。
私たちは、思い通りにしたいという心を無くすことはできません。だから、人生に苦悩は尽きません。しかし、その苦悩にはたらいているのが仏法です。
仏法は宝です。仏法の根源は「南無阿弥陀仏」です。南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏のはたらきです。そのはたらきは、あらゆる者におさとりを与えようとするはたらきです。それは、おさとりが本当の豊かさなのだと、仏さまはご存じだからです。
仏法・宝は満ち満ちています。南無阿弥陀仏のお念仏の声となって、阿弥陀さまがはたらいています。南無阿弥陀仏という宝の中に私たちはいるのです。本当の豊かさの中に住んでいるのです。
「いま」すでに目的の中にいるのです。
(住職)