<法蔵菩薩から阿弥陀仏へ>
仏教は、おさとりを開かれた仏さまの教えで、それは、私たち一人ひとりがおさとりの仏に成る教えです。仏教を聞くときに、まず、それが成仏道であるということです。
『仏説無量寿経』に、阿弥陀仏のことが説いてあります。阿弥陀仏が法蔵菩薩という菩薩さまであった時、法蔵菩薩は「あらゆるものを、おさとりの仏にしたい」と願われました。そして、私たち一人ひとりの姿をつぶさにご覧になった時、私たちが自分の力では到底、仏に成れる力が微塵も無いことを見抜かれました。では何故、法蔵菩薩は私たちを仏にしたいと願われたのか。それは、仏に成ることが、あらゆる執着・苦悩を離れた一番の幸せであることをご存じだからです。
そこで、法蔵菩薩は「どうすればあらゆるものを救う、すなわちおさとりの仏にすることができるのか」と、五劫という思い量ることの出来ない永い永い時間をかけて、考えに考えられました。そして、おさとりの世界である浄土を建立し、あらゆるものを救い取るために四十八の願い(四十八願)をおこされたのです。
法蔵菩薩は「この四十八願を完成して、あらゆるものを仏にすることのできる仏になれなかったなら、阿弥陀仏とは決して名乗らない」と誓われたのです。そのために、法蔵菩薩はまたまた、兆載永劫(ちょうさいようごう)というとてつもない時をかけて修行に励まれ、四十八願を完成し、阿弥陀仏と成られたのです。このことは、法蔵菩薩があらゆるものを救うことの出来る阿弥陀仏という仏さまに成られたということを示しています。
この法蔵菩薩すなわち阿弥陀仏の願いと行は、私たち一人ひとりのための五劫思惟の願であり、兆載永劫の修行であります。それは、この私を救うために五劫思惟と兆載永劫の修行が必要だったということです。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という、親鸞聖人のお言葉があります。まさに私一人のための阿弥陀仏のご苦労であります。
<声の仏と成って>
法蔵菩薩は「あらゆるものを仏にすることの出来る、阿弥陀仏という仏に成ったことを、どのようにして知らせようか」と考えられました。そして「重誓名声聞十方」と、声の仏さま、すなわち「南無阿弥陀仏」の声と成って、私たち一人ひとりのところに至り届き、そのことを知らせて下さっています。
法蔵菩薩から阿弥陀仏へのすべてが、南無阿弥陀仏と現れているのです。南無阿弥陀仏は今すでに十方世界に届き響いています。救いのはたらきである南無阿弥陀仏は、いつでもどこでもはたらいているのです。
<「まかせよ」「まかせる」>
本願寺第8代の蓮如上人が『御文章』に「阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、『衆生仏に成らずはわれも正覚成らじ』と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり」とお示しです。
南無阿弥陀仏は、私が往生成仏できる証拠なのです。阿弥陀仏は「救いのはたらきはすでに完成しているのだから『この阿弥陀仏にまかせよ』」と喚んでいて下さいます。阿弥陀仏の喚び声そのままに、私は「阿弥陀仏に『まかせます』南無阿弥陀仏」とお念仏申します。
このことを「南無阿弥陀 心一つに味二つ 親の呼ぶ声 子の慕う声」と読んだ方がいらっしゃいます。
(住職)