阿弥陀さまに抱かれて(126)

-5月の法話-

~ようこそ、ようこそ~

<5月21日は、親鸞聖人のお誕生日>

 

 浄土真宗をお開き下さった親鸞聖人は、平安時代の終わり頃の承安3年4月1日、西暦にすると、1173年5月21日に京都でお生まれになりました。今から851年前のことです。

 

 親鸞聖人は「生死いづべき道」、すなわち迷いのいのちを離れ、おさとりの仏に成る道、何を依りどころに生き、死んでいくのかを、7人の高僧方のご指南を仰ぎ、仏さまの教えを聞いていかれました。そして、阿弥陀仏のはたらきである「南無阿弥陀仏」を依りどころとする浄土真宗という教えをお開き下さいました。

 

 この御教えを頼りにして数えきれないほどの人々が生き、命終わって行かれました。そして、今も世界の多くの人々が南無阿弥陀仏を喜び、依りどころにして人生を送っています。

 

 

<妙好人・源左>

 

 浄土真宗には「妙好人(みょうこうにん)」という人がいます。妙好人とは、南無阿弥陀仏のいわれを聞き開き、南無阿弥陀仏を信じ阿弥陀仏の救いを深く喜んで、お念仏申しつつ人生を送っている人です。

 

 その妙好人に因幡の源左という人がいました。源左さんは、江戸時代の終わり頃、現在の島根県で生まれ、昭和5年、89歳で命を終えられています。18歳の時に、父親が40歳そこそこで亡くなったのですが、その父親が亡くなる前に「おらが死んだら親様たのめ」と源左さんに言ったそうです。それが遺言でした。それから、源左さんは「死ぬということはどういうことか」「親様とは何のことか」と気にかかり考え始めました。父の死が、源左さんにとって仏さまの教えを聞く機縁となったのです。

 

 「たのめ」とは「頼りにせよ」「まかせよ」という意味です。「親様」とは「阿弥陀仏」のことです。

 

 突如として襲いかかってくる死の恐怖、そして死んだらどうなるのだろうかという、まるで闇の中を覗くような不安が、ひたひたと心に迫って来たそうです。

 

 源左さんはお寺にお参りし、何度も何度も南無阿弥陀仏の教えに耳を傾けました。そして阿弥陀さまをたのむとは、生も死も、自分自身をそっくりそのまま阿弥陀さまにおまかせするのだと聞かせていただいて、頭の中では分かったつもりで、やれやれそうであったかと思っている。するとある時、ふっと忍び寄る得体の知れぬ不安に怯えて、また何もかも分からなくなることがしばしばで、もんもんとした不安と焦りの日々が10年余りも続いたそうです。

 

 そして、30歳を過ぎたある夏の朝のことです。源左さんはいつものように、まだ夜も明けきらぬうちに、牛を連れて裏山に朝の草刈りに行きました。朝日が出るころ、刈り取った草を幾つかに束ねて、それを牛の背に乗せて帰るのですが、みんな乗せたら牛がつらかろうと、一束だけは、自分が背負って帰ろうとしました。ところが疲れが出たせいか、急に腹が痛んでどうにもならなくなったので、背負っていた草の束を、牛の背に負わせました。すると、すーっと楽になった。その瞬間、源左さんの心が開けました。

 

 「ふいっとわからせてもらったいな」と、源左さんは後々まで語っています。

 

 自分が背負っていかねばと、頑張っていた草の束を、牛の背にまかせたとたんに手ぶらになった自分は、嘘のように楽になった。その時、私のすべてをしっかりと支えて「お前の生死(しょうじ)は、すべてこの仏が引き受けるぞ」と呼び続けていて下さる阿弥陀如来さまがおいでになることを、全身で「ふいっと」分からせてもらったというのです。

 

 

<ようこそ、ようこそ>

 

 人生は思い通りにはいきません。そこに苦悩があり、悲しみがあります。そしてその根本には、必ず命終わって行かなくてはならないという苦悩を抱えて人生を送っています。

 

 私は、縁あって得難い人としての命を頂きました。苦悩が縁となって「南無阿弥陀仏」のおいわれを聞き、浄土に生まれ仏に成らせていただく身であると知らせていただきました。苦悩の私を目当てとして、阿弥陀さまがお出まし下さったのだと聞かせていただきました。阿弥陀さまの温かいお慈悲に遇うことができました。

 

 源左さんの口ぐせは「ようこそ、ようこそ、なんまんだぶ、なんまんだぶ」だったそうです。阿弥陀さま、ようこそ、ようこそおいで下さいましたと。

 

 阿弥陀さまが今すでにここにおいで下さっていることを、その人生をかけて明らかに示して下さったのが親鸞さまです。親鸞さまのご苦労のお陰で、阿弥陀さまがご一緒の私の人生があります。

 

 「ようこそ、ようこそ、お出まし下さいました親鸞さま」

 「有難うございます。南無阿弥陀仏」

 

(住職)