阿弥陀さまに抱かれて(128)

-7月の法話-

~救いは無条件~

<人生、条件だらけ>

 

 私たちの社会は「こうすればこうなる、こうなればこうなる」と、「こうすれば」「こうなれば」という条件をクリアーすれば目的が達成されるというものです。そこにあるのは、条件をクリアーするために手段を尽くして目的を達成するという考え方です。

 

 入学試験に合格するには、募集定員以内に入る点数を取らなければならない。定期試験を受けて60点以上は可、60点未満は不可。何かの資格を取るためには、80点以上の成績が必要だ。人間関係においても色々な条件が存在し、男女の恋愛においても、それぞれ相手に求める条件があるでしょう。

 

 このように、私たちの人生には様々な条件が横たわっています。そして、その条件をクリアーしたところに結果がついてくるという考え方で私たちは生きています。

 

 ですから、この考え方で宗教を理解しようと思うと、こちらから神仏に対して何かの条件を積み重ね、その条件をクリアーした結果として何かの利益を得るという教えは、世間の考え方と合っているから解りやすいものです。

 

 しかし、浄土真宗は、それとは全く違います。仏教の目的は、仏に成ることです。これを外して仏教はありません。浄土真宗の利益は、生きている今、必ずさとりを得る身に定まるということと、命終わった時には、おさとりの仏に成るということの2つです。そして、その利益を得るためにクリアーしなければならない条件は一切ありません。

 

 

<浄土真宗は生き方を言わない>

 

 浄土真宗は生き方を言いません。浄土真宗とは阿弥陀仏の救いのはたらきです。阿弥陀仏の救いは、私たちの生き方を問いません。生き方を言うと、必ず救いから漏れる人が出てきます。

 

 例えば、煩悩を一つずつ無くしなさいと生き方を言われたら、私たちはすべて、救いから漏れてしまいます。善い事だけをしなさい、悪い事をした者は救いませんと言われたら、やはりみんな救いから漏れてしまいます。

 

 私たちは、すべてを自分の思い通りに生きることはできません。善い事ばかりしようと思ってもそうはいきません。悪い事をしないようにと願っても、知らず知らずのうちに人を傷つけたり、罪を犯したりします。また、仏さまは、縁に催されたら根底に罪を犯しかねないものを持っているのが、私たちなのだと教えて下さいます。

 

 阿弥陀仏は、その姿を見抜かれました。阿弥陀仏の救いには何の条件もありません。

 

 「私が煩悩まみれのあなたを救える仏に成るよ、縁によっては悪い事をしてしまうあなたを救える仏に成るよ」と大いなる誓いを発して下さったのが阿弥陀仏です。私たちの煩悩まみれの姿を責めるのではなく「私が煩悩具足、罪悪深重の衆生を救う仏に成るよ」と誓い、その誓い通りにはたらいていて下さるのが阿弥陀仏です。

 

 

<救いは無条件>

 

 無数の仏さまがおいでになる中、どの仏さまもその救いには必ず条件がありました。しかし、阿弥陀仏お一人だけは、その救いに条件を一つもお付けになりませんでした。その背後には、条件を付けると救われない私たちの姿があるのです。

 

 逆に、あらゆる者を救うために、阿弥陀仏は、五劫というとてつもない永い時間をかけて考え抜き、ご自身に四十八の条件(四十八願)を付けました。そして、その四十八の条件がクリアーできなければ阿弥陀仏と名乗らないという誓いを立て、そのすべての条件をクリアーするために兆載永劫という、思い量ることの出来ない時間をかけて修行し、自らに課したすべての条件をクリアーされました。私たちを一人残らず救うために、それほどのご苦労が阿弥陀仏にはあったのです。

 

 阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏という声の仏となってお出まし下さっています。南無阿弥陀仏と私の口で称え、南無阿弥陀仏の喚び声を聞く。そこに条件の一切ない救いがはたらいています。私は、その無条件の救いに、南無阿弥陀仏とまかせるだけです。

 

(住職)