<人間に生まれた>
この度、私たちは人間としての命をいただきました。「人間に生まれることは稀なことである、とても難しいことである」と経典に書いてあります。そのことについては、いくつかの譬喩を用いて表現されているのですが、その一つを紹介します。
四禅天という天上界でも一番高いところがあります。その天上界から、天人が地上に向けて糸を垂らして、その糸が地上に落ちている針の穴に偶々入るほどの出来事であると説いてあります。これは、人間の命を得ることが誠に難しい、それはそれは稀なことであるということを譬喩で表しています。
私たちは、ややもすると、人間に生まれたということにそれほどの感慨もなく、当たり前に生まれて来て、当たり前に生きているのだと思ってはいないでしょうか。しかし、人間に生まれたのは、誠にまことに有難い(有ること難い)ことなのだと、経典は教えています。また、当然生きていることも当たり前ではなく、有難いことです。
仏さまの教えを聞いてみますと、この人間世界には、仏さまのはたらきが満ち満ちているとのこと。そして、人間に生まれたということは、その仏さまのはたらきを聞くことの出来る世界に生まれたのだということです。
<幸せになるために>
「幸せになりたい」というのは、私たち共通の願いでしょう。また、「幸せになるために生まれて来たのだ」というのが私たち共通の思いではないか。そのために、幸せになるためにプラスとなるものを手に入れようとします。
健康と病気でいうと、健康はプラスで病気はマイナスです。若いと年寄りでは、若い方が良くて、年を取るのは嫌だとなるでしょう。金持ちと貧乏では、当然金持ちがいい。喜びと悲しみでは、喜びがプラスで悲しみはマイナス。苦と楽では、楽がプラスで苦がマイナス。生と死では、これは当然、生がプラスで死はマイナスと考えます。
そして、経済的に恵まれ健康で長生きこそが一番幸せだと、色々と気を付け努力します。経済的に恵まれることは有難いことですし、長生きは有難い感謝すべきことですが、お金こそがこの世の一番の幸せだ、長生きだけが人生の目的みたいになってしまうと、それは考えものです。
私たちは、プラス価値のものを一生懸命上げて、マイナスの価値を下げていけば、幸せをつかめると思って頑張ります。しかし、仏さまは、そのことが本当の幸せに行き着くのではないと説いて下さいます。
人生は思い通りにはいきませんし、どのようになっていくかも分かりません。幸せのためのものも必ず手離す時がやって来ます。それは、必ず命終わるからです。なので、人生思い通りにいかなくても、命終わっても大丈夫なものにあうことが、幸せになるために一番大切なことです。
<南無阿弥陀仏に遇うために>
このような話を聞きました。統合失調症を長く患い、病苦の中にいた老人が「この病気になって良かった、この病気のお陰で阿弥陀さまのお慈悲、南無阿弥陀仏に遇うことができました。今が一番幸せです」と言って、命終えて行かれたそうです。
人生思い通りにいきません。この老人は長い病苦の中にありました。「どうしてこんな病気になったのか」「何がいけなかったのか」とか、色々と考え苦しまれたのではないでしょうか。しかし、そのような中で、縁あって浄土真宗の教えに出遇い、南無阿弥陀仏のおいわれを聞かれました。何度も何度も聞かれました。
「南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の『苦しみ悩む者を決して見捨てない、必ず救い取る、変わることのない安らぎを与えたい』というはたらきが現れているすがたなのだ」と聞き、南無阿弥陀仏に出遇いました。統合失調症という病気になったことは変わりませんが、その意味が変わりました。統合失調症という病気に「お陰さまでした」と、手を合わせる心が恵まれました。そこには、苦悩や苦しみさえもが「お陰さまでした」と転じられていくはたらきがあります。
私は、この度の人生、南無阿弥陀仏に遇うために生まれて来ました。必ず命終わって行かねばならない私ですが、阿弥陀さま、すなわち南無阿弥陀仏の仏さまは、私を必ずおさとりの仏にして下さいます。南無阿弥陀仏は、今すでに、はたらいていて下さっています。
まことに得難い人間としてのいのち、それは思い通りにいかない、苦の多き人生ですが、阿弥陀仏の慈悲に抱かれて、おさとりの浄土への道を生きています。
南無阿弥陀仏に遇った今、幸せです。
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなしに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(歎異抄)
煩悩で出来上がった、私たちの移り変わりゆく無常の世界には、まことの幸せはありません。決して変わることのない、清浄真実なる南無阿弥陀仏のお念仏ひとつが、本当の幸せを与えて下さるまことのはたらきです。
(住職)