<思議の教えと不思議の教え>
「仏教は難しい、何を言っているのか分からない。今の自分には、関係ないことじゃないか」これが多くの人が持っている仏教に対する思いではないか。
仏教には「思議の教え」と「不思議の教え」があります。思議の教えとは、私たちの頭で理解出来る範囲の教えです。それに対し、不思議の教えとは、私たちの頭では思い量ることの出来ない、理解を超えた教えのことです。つまり、仏さまの教えには、知性、理性で推し量ることの出来るものと出来ないものがあるということです。
<命の歴史>
例えば、私の命の歴史を考える時、一識的には、私には父母がいて、その両親にも父と母がいて、そして、その祖父と祖母にも父母がいて、その先にも父母がいて……と考えます。そう考えると、何百万、何千万、何億、何兆という、数えることができない多くの多くの命の繋がりの中で、今の私の命があることが分かります。それは間違いありません。誰も疑えない本当のことです。しかし、それは生物学的な命の繋がりの事実です。仏教もその生物学的な命の事実を否定はしません。これは、知性で理解できる思議できることです。しかし、仏教が教える私の命の歴史は、それとは違うのです。
「曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没(もっ)し、つねに流転(るてん)して」というご文があります。これは、私という存在は、曠劫よりこのかた、すなわち、思いも及ばない遥か遥か昔から、生まれては死に、生まれては死に、……生死(しょうじ)を繰り返して来た。そして今、深き縁あって人間としての命を頂いているのだとの教えです。
これは、仏さまの智慧の眼で教えて下さるもので、私たちの理性では理解できない、不思議の教えです。私たちの人生は、長くても100年程の間です。自分の命は、生まれた所から始まり、死んで終りだというのが私たち世間の常識でしょう。しかし、ここが仏教の話と世間の話が根本的に違うところです。しかし、私たちの頭では理解できないものもある。私たちの知らない世界がある。このことを教えて下さるのが仏教です。
<知性の思い上がり>
世の中のすがたを表すものとして、経典に見濁(けんじょく)という言葉があります。見濁とは、思想が乱れて、邪悪な思想や見解がはびこることを表します。これを現代の世相に当てはめて考えてみると、人間が思い上がっていくというすがたを示しているといえるでしょう。それは、人間の積み上げた知識や経験こそが正しく、科学と理性によって人類の幸福がもたらされるのだという考え方です。
「仏教なんて、よく分からない、科学的でもない考え方は古くさいよ、これからは、科学と理性に基づいて考えることこそが正しいものの見方だよ」というのが、多くの現代人の受け止め方ではないでしょうか。
しかし、そう考えて人間が積み上げた知識や経験を当て頼りにして、本当に私たちは幸福になっているのか。むしろ、欲望に振り回されて、苦しみや悲しみの中、不幸を生み出してしまってはいないでしょうか。
<仏さまが教えて下さる幸せ>
先に、命の歴史のところで言った生死とは迷いのことです。迷いの境涯を繰り返してきたというのです。その迷いの境涯から出ることを仏教は説くのです。迷いから出ることが仏に成るということです。仏に成ることが本当の幸せなのだと、仏に成られた仏さまが教えて下さり、それを勧められるのです。迷いの境涯にとどまっているから、苦悩があり、悲しみがあるのだと教えて下さっています。
では、私たちは仏に成ることができるのか。仏に成るには煩悩をすべてなくさなければなりません。しかし、私たちは、欠け目なく具えた煩悩から、命ある限り離れることが出来ません。ということは、私たちは、自分の力で、この命ある限り、今生において仏に成ることは出来ないということです。
しかし、このすがたを仏さまの眼で見抜いたのが阿弥陀さまという仏さまです。阿弥陀仏は、このような私たちのことを悲しみ哀れみ、煩悩を抱えたまま浄土に救い取り、必ず仏にするのだと願いはたらいていて下さいます。
阿弥陀仏の救いを無碍(むげ)といいます。無碍とは、救いに碍りとなるものが何もないということです。煩悩も碍りとはなりません。煩悩を持ったままの救いです。この阿弥陀仏のはたらき全体が、私たちの口に称えられる南無阿弥陀仏です。
南無阿弥陀仏のいわれを聞き、その救いにはからいなくまかせた時に、必ず仏に成る身に定まるのです。仏に成ることが本当の幸せです。今生では、仏に成る身に定まることが決して変わることのない幸せです。南無阿弥陀仏とお念仏申しつつ人生を送る、安心です、幸せです。
(住職)