阿弥陀さまに抱かれて(131)

-10月の法話-

~少年の死~

<我が子の死>

 

 今年の8月、知り合いのお寺の住職さんの一人息子である中学3年生のM君が、14歳で命終えて行きました。骨肉腫だったそうです。

 

 亡くなった数日後、妻と二人でお寺に弔問に出かけました。本堂の仏さまの前に安置してあるご遺体のお顔は安らかに眠っているようで、本当に美しく、浄らかに輝いているようでした。

 

 M君は、スポーツに合唱にと、とても活発な少年だったそうです。しかし、昨年の夏、膝に痛みを覚え、病院で詳しく診てもらったところ、骨肉腫が見つかったのだそうです。それから1年余りの病気療養でありました。そのような中、7月には京都に修学旅行に行かれました。西本願寺にお参りしたくて、友達と一緒に訪ねたそうです。最後に、本願寺の阿弥陀さまと親鸞さまにお参り出来てよかったですね。その時、記念にと買って帰ってきた紺色の念珠が、ご遺体の上に静かに置かれていました。

 

 大切な大切なご子息を亡くされたご両親の心は、どのようなものでしょうか。察して余りがありすぎて何とも言えません。

 

 

<受け容れ難い死>

 

 死を受け容れることは、とても難しいことです。自分の死を受け容れることも、それはそれは困難なことであるし、大切な人の死を受け容れることも、大変難しいことです。

 

 江戸時代後期の俳人・小林一茶が、1歳になって間もない長女を、突然の病で亡くした時の心を「露の世は 露の世ながら さりながら」と詠んでいます。露の滴のように儚い世、また儚い人の命であることは、見たり聞いたりして知ってはいるが、愛しい我が子を亡くした私の心は、それを受け容れることは出来ない。胸を掻きむしるような悲しみでいっぱいだということでしょうか。

 

 

<厳しいご催促>

 

 浄土真宗には「厳しいご催促」という言葉があります。思いもよらぬ悲しい、苦しい出来事にあったことを、浄土真宗では厳しいご催促と受け止めてきました。

 

 人生は、思い通りにはいきません。思い通りにいかないことでいっぱいです。生きていると、思いもよらない苦しみ悩みや悲しみに必ず出あいます。苦悩は尽きず、悲しみも尽きません。しかし、この私たちこそが阿弥陀仏の目当てです。

 

 「如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり」(親鸞聖人・正像末和讃)

 

 我執の煩悩ゆえに、苦悩から悲しみから離れることの出来ない私たちの苦悩・悲しみが、阿弥陀仏の苦悩・悲しみです。だからこそ、阿弥陀仏は「私たち苦悩の有情を放っておけない、見捨てることが出来ない」と本願を発し、初めから大悲心を回向し、成就して下さいました。その本願成就の大悲心が「南無阿弥陀仏」です。

 

 厳しいご催促とは、自らに起った悲しみ、苦しみを縁として、阿弥陀仏がその逆縁を仏法に聞き、尊いご縁と転じるようにと催促されているのだと、受け止めていくことです。

 

 阿弥陀仏に出あっていた小林一茶は、長女を亡くした悲しみの年の暮れ「ともかくも あなたまかせの としの暮」と詠っています。あなたとは、阿弥陀さまのことです。

 

 苦しかったこと、悩んだこと、悲しかったこと、病気をしたこと、みんな無駄じゃなかった。南無阿弥陀仏は、それらすべてに意味を与えて下さいます。

 

 「南無阿弥陀仏」阿弥陀仏におまかせします。

 

(住職)